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X Dignity宣言

―21世紀における「尊厳」の再定義―

融和する境界 突破する学知

現代社会では、自己と他者、人間と機械、仮想と現実、人間と動物、男性と女性の性差など、これまで自明とされてきた様々な境界の融解と見直しが進んでいる。

とりわけ近年は生成AIの登場を通じて、既存の人間と機械との境界が曖昧化する一方、ソーシャル・メディアの影響により人々の認知が他律的に形成される契機が増大するなかで、これまでの近代的な法や政治を支えてきた、人間の主体性や責任、権利や自由、デモクラシーの理念は、根底からの再検討が迫られている。

さらに国際社会に目を転じるならば、グローバル化の進展によって、情報技術産業をはじめとした多国籍企業の経済活動が世界中に広く浸透し、人々の交流は国境を越えて拡大している。しかしそれに伴って主権国家の枠組みでは対処できない新たな危機や衝突に直面するとともに、領土や国境を侵犯する戦争もまた減少するどころか激化し、国家と国家の境界にこぼれ落ちた無辜の尊き命は一瞬にして暴力により奪われている。

地球規模の政治課題や環境問題との取り組みを通じて、多様な価値を重んじながら将来世代の繁栄を願う、持続可能で包摂的な社会の発展を実現するためにも、人間とはいかなる存在か、新たな視座から再定義を行う必要がある。その際、重要なキーワードとなるのが、dignity=「尊厳」である。

慶應義塾を創設した福澤諭吉は、近代日本の出発点において、学問教育の理念として「独立自尊」を掲げた。「独立自尊」とは、他者の存在や見解を尊重しながら、しかし他者に依存せず、自らの尊厳を保つことを意味する。福澤はこの「独立自尊」の精神のもと、「徳」を修め「智」を広め、様々な人々との「交際」を拡充することこそが、「万物の霊」としての人間のつとめであると説いた。

それから約150年が経った今日、例えば情報空間では、個人の関心や時間が交換財として取引される「アテンション・エコノミー」と呼ばれるビジネスモデルが支配的である。AI・アルゴリズムの利用により、「刺激(レコメンド)と反射(クリック)」からなる動物実験的な広告空間の中で常に何かに急かされている現代社会において、果たして人間は自己の尊厳に配慮したテクノロジーを手に入れることができたのであろうか。

あるいはまた、近年、脳神経科学が目覚ましい発展を遂げ、脳とマシンを直接つなぐBMI(Brain-Machine Interface)の開発が進んでいる。事故や病気で損なわれた心身の機能をアバターやロボットに代替させるBMIや、脳神経回路の組み換えをAIが誘導して機能回復を実現するBMIは、一部がもう既に実用化されており、科学技術に対する私たちの認識や社会のあり方を大きく変え始めている。しかし新興技術が持つ光の側面が、将来の人類の幸福の増進に貢献するものだからといって手放しに礼賛するのではなく、その影の側面が私たちにどのような影響をもたらしうるのか、冷静に思考したい。意識や思考がマシンにまでおよび変容していくことや、外部からハッキングされるリスクを含めて、人々の脳神経、さらには精神や心と呼ばれるものに対する科学技術の介入をどこまで認めるべきなのか、改めて人間の尊厳の吟味が必要となる。

もちろん、福澤諭吉が生きた時代とは異なり、現代では他の動植物との共生をはかる地球環境の視座からも、またAIとの関係においても、もはや無前提に人間の尊厳の特権性のみを声高に唱えることはできない。だがそれ故に、様々な領域の融和が進む今日だからこそ、相互に侵食する関係性のなかに均衡点を探り、「尊厳」をめぐる価値を再定位する、思考様式の革命が求められる。

Academic Beingが集う知の動的ネットワーク

X Dignityセンターは、以上の問題意識のもと、頭文字「X(クロス)」に示されるように、様々な学問領域の重層的な連携を積極的に推進することにより、21世紀における「尊厳」をめぐる倫理的価値を考究し、その成果を世界へと発信する、慶應義塾大学の新たな領域横断研究の一大拠点となる。

そこでは、理系と文系といった既存の二分法を越えて、洋の東西の歴史的叡知を研究する哲学者が、最先端の認知科学を牽引する科学者と時間をかけて対話するような、サロン的空間を創り出すことが肝要である。同時にまた、法や経済、政治や経営を講じる社会科学者が工学者と協働して、AIやVR、アーキテクチャを活用した21世紀のデモクラシーの可能性を極限まで探究するような実験の場も必要となる。本センターはこうした、過度に制度化されない、動的でリズミカルなネットワーク構造を取り入れる。研究ネットワークとしては、脳神経科学などに強い沖縄科学技術大学院大学(OIST)や、本センターと同様の問題意識をもつ海外研究機関との連携も予定している。

さらに、その交流は大学内部にとどまるものではない。センターの頭文字「X」はまた、大学と産業界、ならびに一般社会に生きる人々との交差(クロス)をも含意しており、学理によって社会全体に「知の連環(Academic Chain)」を張り巡らせることを重要な目標とする。その実現に向けて、大学の内側と外側という垣根を越境し、研究者と一般の社会の人々が積極的に関わり合い、相互に貢献し合うエンゲージメント・スタジオを開設するとともに、領域横断性を潜在させた人文社会科学研究と産業界とを架橋するブリッジング・オフィスを設置する。そこでは、学生を中心としたブリッジ・パーソンが、先端的な学術研究を「翻訳」し、社会に向けて積極的に発信することで、有用性の気づきを提供するとともに、サロン型コミュニケーションを通じて産業界を含む社会全体に「知」を還流させていく。

科学技術の最新の研究成果を旺盛に摂取しながら、人間とすべての生物、機械を含む万物の包摂的均衡と発展をはかる社会実装に貢献し、人類の善き生の未来を創造する。そんな、真理を探究する学問研究の遂行とその実践的応用を重んじるAcademic Beingの精神をもった人々が集い、職業や年齢、性別にとらわれず、語り合い、協働する場所。それこそが、慶應義塾大学X Dignityセンターである。

共同代表
牛場潤一
大久保健晴
徳永聡子
山本龍彦